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最近、電車で多摩川を越えるとき窓から富士山が見えた。4月に入って、やっと電車が平常運転に近い状態になった。
震災と原発事故は日常をごっそりさらっていった。あらゆる物事があの3月11日に繋がるかに思える。昨日も大きな余震があった。以前なら大きな地震も今では余震に格下げだ。 こんな状況が続く中で見た富士山は変わらず、わっ、すごい。見つけた、見たよ見たよと、心の内で小さく騒いでしまう。なんか得した気分だ。えらいな、富士山は。 計画停電の時、我が家は地区にある設備の関係上、今までに2度しか実行されなかった。それでも夜に2時間ほど電気が落ちた日は部屋にアルコールランプを持ち込んで灯した。小型ラジオからのひび割れた音を背に食事やお酒を飲んで停電の時を過ごした。不思議と不便とは感じず、なんだか得した気分だった。むろん毎日ではないという前提で、そう感じたのだろう。 どんな時でも得した気分に出会うことがある。道を歩いていて猫にあったり、鼻をかみたいなあと思ったときに道でテイッシュをもらったり、開けるのがイヤなフタがパカッと開いたり、どれも他愛がない。でもどれもみんなお金に代えられない「得」をもらえる。 気分が落ち込んでいたり、悪かったりすると、かわいいものもかわいく見えないだろう。富士山もお気楽に見えるかもしれない。早く普通になって、得した気分のものに多く会えるよう願いうばかりだ。ちょっとがんばってお駄賃をもらおうかな。 #
by zuankousakuin
| 2011-04-08 14:29
| 四方の話
10代の終わり頃。デザインのデの字もわからず、これから進むと決めたこの世界で一体、社会に対して何ができるのだろうかと考えたことがあった。ぼくらが高校を卒業する頃まで瀕死ではあったが学生運動は消えてはいなかった。
その影響もあったのだろうか。大学に入っても、ぼくはグラフィックデザインにあこがれはしたが、なんとなく広告には懐疑的であったり、どこか軍門に下るような後ろめたを感じていた。今から思えばバカな話だ。その後のぼくは広告の世界に多少なりとも足を踏み入れていたのだから。一時の熱、知恵熱だったのかもしれない。 十代の終わりに見たキューバのポスターやロシアのポスターは、自分が目指すスタイリッシュでポップな世界を持ちながら芸術と社会との接点を感じ、可能性を見た作品群だった。同時にそれはアートとデザインのジレンマから逃れる扉のようなものだった。だが、ロシアもキューバも早い段階に芸術と社会との関係は崩れ、やがて体制そのものが崩れていったことは承知の通りだ。 デザインや美術に従事している者が、社会で起きていることに、どのように関わり、力を発揮できるのだろうか。今回の東北関東大震災は再びぼくに問いかけてきた。以前の問いとは性格は違えど、答えを求めている。 ぼくらの世界は腹を満たすことも血を止めることも、空から人を救うこともできない。こんなとき、いつも無力を感じる。医者であったら、消防隊員であったらと思うことがある。できなければ、できないほど思い歯がゆさを感じてしまう。 自分たちにできること。他の人にはできないこと。持っている能力で力になれることはないのか。フランコの空爆に怒ったピカソのゲルニカはどうだったのだ。シケイロスはどうだったのだ。高校生の時に見たバングラディッシュ コンサートのクラプトンはジョージハリソンは、デイランは…。 今日、新百合ヶ丘で地元の高校生だろうか。20人ほど集まってストリートダンスを踊っていた。いわゆる今風の若者。茶髪に下げパン。ヒップホップをかけながら順番に踊っていた。倒立したり、回転したり。技を披露すると、通りかけていた休日の買い物客も立ち止まり見ていた。ふだん勉強そっちのけで躍りや音楽に熱中してる連中なのかもしれない。 ぼくも思わず立ち止まって見てしまった。よく見れば踊っている前に小さな箱が3つばかり置いてある。そしてその前に彼らよりちょっとまじめそうな男の子と女の子が声をはりあげている。大震災の義援金を募っていた。 あっ、やられた…。これでいいんだ。自分達にできること。しっかりやってるじゃん。下げパン!足踏みなんかせず。もんくなんか言われず、ストリートダンスでみんなからお金を集めている。 見ていて楽しかった。本人たちも楽しんでいた。ただでは踊らない彼ら。ぼくもタダでは見れない。チャリン。 #
by zuankousakuin
| 2011-03-22 10:22
| 四方の話
何から書けばいいのか、東北を主とした巨大地震は日本全土に影響を及ぼし、世界を震撼させた。ぼくの知る限り経験したことのないすごい地震だった。連日の報道は驚きの映像が絶え間なく流されている。
中でも津波は正直、パニック映画に出てくるような巻き込む波のイメージしかなかった。それが映像で目にする津波はちがった。徐々に知らぬ間に、そしてあっという間に街や村の中に海水が襲いかかった。溢れるはずのない海が溢れたような感じだ。襲いかかる巨大な白い波はCGでもなければ、つなぎ合わせた映像でもない。現実の映像だ。 それにしても人は電気に縛られ過ぎたのだろうか。携帯は普段、あれほど美味しい店や行き方まで教えてくれたのに…。全く通じず使えなかった。「肝心なときにダメな彼」を露呈してしまった。 どこにも電話できなかったたドコモ。柔軟でなかったソフト、あうんの呼吸で伝わらなかったau。こんなときに使える携帯を開発してほしい。生涯、使うことのない機能はいらない。 時にアンプラグド、今さらだが原発にマヒしていたのかもしれない。30年前こんなに電気を無意識に使っていなかったように思う。より多くの電気を作らざる負えない状況へ、電力会社を向かわせた責任が自分たちにもあるのかもしれない。電気という餌を食べても、食べても空腹感が満たされない怪物のような東京、日本。気づけば胃袋の中にいたのは自分たち。これからは節電を越えて切電、切ることが「大切」なのかな。 #
by zuankousakuin
| 2011-03-18 11:03
| 四方の話
いきなりだが、なぜきれいな人とそうでない人がいるのだろうか。
そんなこと言ったって、いるもんはいるのだし、いないもんはいないよっ。考えるだけ無駄だと言われればそれまでだ。が、しかし簡単に納得もいかないのが知恵熱でもある。屁理屈は屁であるいじょう出さなければならない。 さてさっそく、その屁理屈だが「ある」のではなく「いる」のであれば、そうと感じるフレームが自分の中にあるということではないか。つまり、この見えないフレームはまぎれもなく規格であって、それにあうかどうかで美人は決められている。目がぱっちり、鼻がすっ、唇がめくれ気味。どれもほんの数ミリ、数グラムの肉や骨の差だ。イケメンも同様である。よくぞ人はその差を数秒とかけずにわかるものだ。目がいいのではなくフレームの刷り込みがはっきりしているということだ。 美女も美男も年代によって変わる。今日のように世界の情報が瞬時に手にでき、それを返すことができるネットワークでは多くのイメージが行き交う。当然イメージの新陳代謝は激しい。かつて、情報量が少なかった時代はたまにしか見なかった別嬪は一旦、美人となるとイメージの滞在時間も共有する時間も長かった。そう考えると美人が増えたのではなく美人の情報が増え、新陳代謝による滞在時間の減少がイメージの数量をマヒさせているともいえる。AKB48にだまされてはいけない!別嬪保存会としては憤りすら感じる…。 きれいというものは目標が作りやすい。整形美容を見ても美人のゴールは多種多様ではないだろう。対して不細工、醜というものは目標になりにくい。いわば規格外である。さまざま、それなり、個性的という言葉を探さなければならない。 きれいになるための方向性のかたちは三角形をなしている。対して不細工は方向を持たない。あえて方向性に形があるとすれば台形に近いかもしれない。こちらも男女問わずである。 特に男性においての肉体造形美はギリシャ彫刻を起点として、現代の理想的男性の体形と2二千百年を越えても大きく変わっていない。この点は女性の理想的体型の移り変わりと異にするところである。男性の場合は表現される要素として「力」のウエイトが大きいせいだろう。 女性には申し訳ないが、女性の理想的フォルムの変遷は女性のみならず男性社会が求めるフォルムの反映であったといってもいい。 きれいかそうでないかは比較的わかりやすい。しかし「美」はやっかいだ。「きれい」のようになんとなくすっきりした感じや、つるんとした感じがない。美には醜と表裏一体なところ、危うさを感じるところがある。異形、奇形といってもいい。 無駄のなさや弱さ善を感じるきれいと、未知や無秩序、悪さえ包み込む力を感じる美。 翻って、自らの有り様はどうか。これまできれいなものをビジュアルとして提供してきた気もする。でもなかなかこの「美」に会うことも手にすることも未だ、できない自分が「きれい」の前いる。美はどこに。 #
by zuankousakuin
| 2011-02-17 11:19
| 美述の時間
仕分けやエコの言葉がすっかり定着した今、無駄と無駄でないものを個人がどう判断したらいいのか考えてしまう。ぼく個人としてはときおり境界線がぼやけて線がひけないことがある。気づけばぼやけた線の上をフラフラ歩いている。
話を絵やデザインに転じてみよう。絵を描いていて、この世界で言う無駄な線、形、スペースに出会うことがある。それらに厳然とした定義はない。従って何をもって無駄なのかを説明するのはむずかしい。なんとなくそう感じたりすることもあれば、空間の力学的なアプローチで判断することもある。力学といっても要は明度による印象としての重さ、軽さ。あるいは形の単純、複雑による量、方向などが判断基準の主である。それらを問いかけながら、漠然とした目標と意味に向かって描写、デザインを進めていくわけである。 無駄の種類は膨大である。悪の種類が膨大であるように。善を取り囲む。 無駄は無駄でないものの数十倍、数百倍はあるだろうか。それだけ何かを無駄と感じてきたということだろう。しかし何が無駄だったかと振り返ると判然としないところもある。そこが、無駄の特徴だろう。自覚症状がないのだ。これも悪に似ていることのひとつかもしれない。 贅沢は、無駄と深い関係にあるようにみえるが、使わない無駄というのもあれば使う無駄も当然ある。贅沢に至っては貧しい贅沢というものもある。 捉え方の問題だろうが、多くは個別の話ではなく、相対関係で判断していくというというところにある。無駄はあるものではなく、なるものとすれば、対峙する側との関係ということになる。 これはぼくが携わる造形の世界も一般社会も同じように感じられる。造形的な立場で言えば無駄と感じる線や形、空間があった場合、感じたものに相対するものがどこかに存在しているということだ。無駄は相対する存在を再確認させるシグナルでもあるわけである。 最近自殺する人が多い。特に若年層や中高年だ。彼らは対する自らを無駄と無益と判断したのだろうか。 どんな経験も無駄なものはないと信じたい、有益であることへ転化したい。さまざまな経験という「時間」を内包した肉の塊としての人間。引き出す時間は有益であると信じたい。ただ、この有益という言葉も多くは社会に立ち位置があり、規則的に働くことであったり、生産的であるという前提で話されている。そうでない有益というものに対して社会は概して冷たい、あるいは理解の域を越えて素通りしてしまう。相関するものと独立するもの、見誤ると価値はぶれてしまう。力まず流されずにいきたいものだ。 20年ぶりに本棚から手にしたつげ義春の「無能の人」。20年目にしてまたしても、考えてしまった。 #
by zuankousakuin
| 2011-01-27 14:13
| 感々、学々
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