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描いた後に気になる部分というのがある。その気になるところは素人、玄人、老若男女関係なしに気になるようだ。これはデザインでも同じだ。しかも、やがてそれは何か気づくところになったりもする。
気になるにもいろいろある。「変」だが、その「変」もよしとし、変のまま置き去りにすることもある。必ずしも気になるものイコール不満や不調和、不備ということでもない。従って、気になるものを全て消すから良いかと言えばそうでもない。ちょいとこんがらがりそうだが、気になるところを残さなかったことを、気にかけること多々ある。 いやいや、そんなことはない。気になるものとは完全でないものであって、つまり忘れ物、取り除くべきである。と言う人もいる。人それぞれである。 さて当方、気になるところを比較的残すタイプである。それがよいかどうか、今もってわからない。気にすること自体がまだまだか、無の境地ってのは難しいもんと俗人は思う。アートってえのはどうも面倒な世界だ。惚れた弱味か。 ![]()
このところブログが一時休眠状態でした。別段、何かあったわけでなく、単にfacebookをはじめだして、そちらにいろいろ書いたりのせたりしていたためでした。何か書こうかと思うとついリアルタイムでビジュアルも載せやすく、レスポンスのよいfacebookの方を優先してしまった結果です。ちょっとブログがかわいそうだなと思いつつもここ2か月ばかりはそんな状態が続きました。
この知恵熱も書き続けて4年以上にもなります。よくもまあ、だらだらと益にもならないことを書き続けてきたもんだとわれながら関心。最初は日頃の思索を整理するために明文化するのが目的でした。それによって、そこから自分の作品を制作する上で見えてくるものがあるかもしれない。なんて、スケベココロではじめたのが「知恵熱1.0」です。 Facebookでは書けないことや、伝えにくいこともあります。ブログにはブログの良さがあるようなので。ちょっと蔑ろにしていた「知恵熱」くん。より思索度を上げて壁打ちを強化していきます。来月からは装いも新たに「知恵熱2.0」をはじめます。 ![]()
「人為的ミス」この言葉が気になった。最近の報道の中で使われていたせいだろうか。あるいはこのところ頭に浮かんでいたピカソ、ピカソにはミスがあるのだろうかということを考えていたせいだろうか。
人為的ミスそのものであるぼくが、このことについて話すには勇気と自己正当化を伴いそうだ。例えばの話からはじめよう。 糸が絡んだように繋がっているパイプがある工場、その中に立っている。どのバルブを閉めたり開けたりしていいものやらわからない。設計した人もなにがなにやらわからないだろう。はたして操作を間違えた!ミスはどこにあるのだろうか。バルブに手をかけた人、機械やシステムを作った人、それともそれ自体。 自然界にミスはあるのだろうか。ミスとは枠を決めた者(人)だけに起きる予期せぬ結果なのではないだろうか。まっすぐに伸びなかった木、流れを変えた川、木から落ちた猿など。自然はミスとしてそれらをカウントするのだろうか。鹿やうさぎが森を抜けて目の前にダムが現れても彼らはダムとはわからないだろう。そこには、ただ大きな白い岩場という「自然」があるだけだ。彼らの不幸は「不自然」が認識できないということだ。いつしか人もこの「不自然」が認識できなくなる時が来るかもしれない。 もうひとつ頭の中に浮かんだ「人為的ミス」の言葉に反応したのがピカソだった。 ピカソには失敗した線や色、形があるのだろうか。描いていてよろけて走った線もきっと取り込むかもしれない。顔を横切る線も意味を変えてしまうのかもしれない。普通の人が失敗、ミスであるものを変容させてしまう。彼自身の中で枠というものの存在を消そうとしているからだろう。 天才には、ミスすらないのだろうか。失敗も成功も凡人が欲する二元論にすぎないのだろうか。枠をつくろうとすればするほど、増えた分のミスがつくられていくような気がする。 つまらないミスもつまらないが、ミスをつくるシステムは、もっとつまらない気がする。 ![]()
土曜日の新宿、打ち合わせを終えて、そのまま飲みへと流れる。気づけば夜中の2時半。みんなと別れて、ひとりゴールデン街の前に立つも、行きつけの店は閉まっていた。あてもないので一度、漫画喫茶やインターネットカフェで夜明かしでもしてみるかと歌舞伎町に向かう。
途中、気になるカフェがぼくの足を止めた「ネコカフェ」だ。うーん入ってみたい。邪道とはわかっていても以前から一度は入ってみたいと思っていた。まさか、夜中に開いているとは。どうしよう、どうしよう、どんなところだろう…。ネコをお腹の上にのせて寝れるのかなあ、それとも柔らかいお腹に顔を埋められるのだろうか。思いの丈は雨後の竹の子。 それにしても新宿、看板はキャバクラの女の子をそのままネコに置き換えたようなつくりになっている。怪しい…。しかし、ネコでボラれたという話は聞かない。決心までの時間はかからなかった。 決心を確認するようにぼくはエレベーターのcloseを押していた。次に指の先はサラ金とインターネットカフェに挟まれた6Fを押していた。ドアが開くといきなり受付が見える。うワっ、さすが新宿雑居!カーブがかからない。日頃、気配に気づいたようににしか現れないような受けつけの青年。 「…らっしゃいませえ」の力ない声とともにぼくを見ずに、ぼくを迎えた。 受付の男は淡々と「ネコカフェのシステム」を説明しだした。ほとんど聞いていないぼく。始発までの2時間、行きずりの触れ合いだ。 8畳ほどの赤絨毯の部屋にネコが5匹座ったり、寝たりしている。交代制なのだろう。ネコも人も同じかな。この新宿ではお互い夜行性か。部屋には 先客がいた。二十歳そこそこのかわいい女性だ。猫じゃらしでチンチラと遊んでいた。ネコは慣れているのだろう。客あしらいのうまいホステスのようだ。 じゃらしてる彼女と目が合い、ぼくは笑みとも無表情ともつかない顔で小さくうなずいた。ぼくが猫じゃらしで遊ぶのも、彼女とハモるようで恥ずかしい。もっともここに来て恥ずかしいも何もないもんだが、やはりアプローチは変えた。人差し指を鼻に近づけたりと、なでたりの基本からはじめた。 それにしても、夜中の新宿の雑居ビルの一室で二十歳そこそこの女の子と50半ばの男がネコとじゃれている。引いた神の目線で見ると変だ、いや、フツーに変だ。15分ほどネコたちと遊んでいたら眠くなってきた。お先にの、目礼を彼女に送って、赤絨毯の部屋を後にする。朝までやってるのだ、仮眠室でもあるのだろうと店員に聞く。 こちらにはそのような部屋はありませんとのこと。えー、じゃあぼくはあの赤絨毯でずっと始発まで…。 「すいません、出ていいですか。てっきり個室でネコと少し休めるものかと思っていたので、入ったんですけど」 店員は困るんだよなあ、そーいうのって、という顔で 「ホント、5分くらいでもダメだけど特別っすよ。上の階がネットカフェだから、そこなら寝れますよ」 「あのお、お金は…」 「ホント、これ特別っすよ。今回はいいっすよ」 ネコカフェの青年も捨てたもんじゃにゃいニャー。なんてねっ。 「今回は…」、彼は次回ぼくが来ると思っているのだろうか…。 食べかけのケーキを残すように出たネコカフェ、取り返しに来るのだろうか、ぼくは。 ![]()
棚に上げるのを承知の上での話だが、人が人を好きになるのって、ほんとに人それぞれ、好き好きなんだなと改めて思う。
人間、長くやっているといろいろな人に会う。おもしろい人、つまらない人、こわい人、やさしい人、困った人などなど。こんなにいろんな人がいるのだから、性格、外見を含めて自分や他人にそっくりな人がいても不思議ではないと思うのだが、いないのが本当に不思議だ。 ぼくは比較的、人をイヤだと感じることがない方だと思っている。それでも、たまにイヤな人はいる。そのイヤな人に似ている「別のイヤな人」がいると、似ているなと思うより、イヤさが違うなと、違いがかえってはっきりしてしまい、新たなイヤさが生まれてしまう。無論、素敵という言葉に置き換えた場合もほぼ同じことになる。 中にはどうみても、こんなやつを好きになる人なんているのだろうかと思うことがある。そんなとき、意外に壁のわきからスッと彼女や彼氏が出てきたりする。そんな二人を前にして、どこをどうしたら、この人を好きになれるのだろうかと思いながら、話も聞かず、そのことばかりを考えてしまう。 きっと、いやな部分があればあるほど、数少ない、いい部分はコントラストで良く見えるのだろうか。彼なり、彼女が相手の魅力を探したり引き出そうとした時点で、不自然な愛に見えてしまうかもしれない。きっと自然に受け入れているのだろう。 ヤクザの情婦がしとやかだったり、イケメンの旦那の奥さんが豪快だったりもする。むろんばっちり、あーこの人にはこの人ねっ、というのもある。お似合いが世界を席巻したらみんな均質化して発展も後退もなく足踏み状態になってしまう。どんなやつでも、ひとり、ふたりはその人を好きになる要素を持っていて、うまくそれに嵌まるとかけがえのないものになるのかもしれない。 なんて人のことを窓越しから見て言ってるけど、人からなんであの人が…と見られているのはこのぼくの方かもしれないな。個々に、それぞれに。 ![]()
しっかり大きくなった我が家の猫。3匹いた猫も先月、21才の寿命を終えたマッシュを最後にこの黒猫だけになってしまった。由緒正しき雑種である。ロシアンブルーと野良猫のハーフ。尤も見た目で言えばロシアン含有率は10パーセントを切ってる。従って、他の黒猫との違いは一目ではわからない。まあ、品がちがうとでもいいましょうか。何かが…違うという漠然とした満足感で自らを納得させています。当の猫はそんなことはどうでもいいのだろう。
この黒猫がはじめて家に来たのは11年前、生後間もない一ヶ月だった。本当に子猫はわいい。神からのギフトのひとつだと思っている。目が合うとその日イヤなことがあってもみんなゆるゆるにして、忘れさせてしまう。赤ん坊だとうんちもオシッコもかわいい。さんざん部屋でぴょんぴょん遊んだあげくスイッチをそのまま切ってしまったように寝てしまう。スイッチの接触が悪いのか時おりピクピク動く。わざとカワイく演じているのかと疑ってしまう。すやすや、このままずっと、このまま子猫で寝ていてくれたらどんなにしゃーわせかと思ってしまう。すやすやの丸まった子猫をそっと寝床に持っていき、寝ながらじっと見ている。あーーなんてかわいんだろう。このまま徹夜で見ていようかなと真剣に思ってしまう。あーかわいい、かわいい。かわひい…朝だ。子猫がいない。今日も徹夜で見ることができなかった。 こんな風にして、かわいい子猫と接しながらいつの間にか成猫になってしまう。少々噛みつかれたり、引っ掛かれたりしてもこの子猫の記憶があるせいか許してしまう。かわいい我が子がバリバリのヤンキーになって暴力事件を起こしても、許し、見捨てられない気持ちがなんとなくわかる。 子猫がこのままでいいと思いながらも、成長しないとそれはそれで不満だ。勝手なもんだ。小さいまま、このままと思っていてもそうはいかない。じゃあがっかりかというと、育つ経過が楽しい上に結果がときおり見えて、それがまたかわいいから不思議だ。 このままで、という勝手は時に裏切られて、別のこのままを生むようだ。できることなら君でなく今の自分のこのままを、自分で裏切れればぼくはもっと楽しいのだが。 ![]()
いつの頃からだろう。お酒を毎晩欠かさず飲むようになったのは。20才前後の頃は酔うと、気分が高まり、いろんなものが間延びしたり、縮まったりした。話しても、話しても尽きることはなく酒で言葉をどんどん堀り出しているように思えた。金もなく早く酔える酒が「いい酒」だった。
30才を越えていっぱしに酒の味を覚えたせいか、酔いは追わずに傍らに置くようになった。肴にもちょっとうるさくなった。なんかイヤな奴になったかな…。でも、そのぶん静かに飲むようにもなった気もする。たぶんそう思うのはぼくだけだろうが。 ぼくの一日の酒の行程表は主に家で飲むことからはじまる。外で飲むのはよっぽど気の合う人でなければ飲まない。ワーカーホリックにも近い自分だが、仕事の話はほどほどに、それが基本だ。したければ酒のない時にすればいい。酒をうまくするのもまずくするのも人と話だ。その人を通り抜けて出てきた言葉やしぐさが楽しく感じたり、考えたりする時間をもらえればいい。もっともこんなことは酒を飲まなくたってできるので、それほど人と飲むということは重要視していない。むしろひとりで飲むことの方が楽しかったりする。 では家での酒の飲み方はどうかといえば、よくチャンポンはだめだというがぼくにはあてはまらない。帰るとまずはビール。その日の料理にもよるが次は日本酒か焼酎あるいはワインにバトンタッチ。その後が自分の時間である。新聞やテレビを相手にウイスキー。時を見計らって風呂に入り、あがってビール。そろそろ眠くなり出すと本を片手に最後の一滴に向かってスコッチをショットグラスに託す。これがぼくのおうち酒だ。めちゃくちゃな量だとは思わないが、やはりこうして書くと多いような気もする。しかも風邪をひかない限り年中無休である。ときに家で二日酔いになりそうなときすらもある。翌朝、妙に頭が痛い、ムカムカする。昨日どこで飲んだかなと家で考える。…家か。これが店だったら繁盛するのになあ、と無駄に考える。 ひとり酒を片手に脈絡のない思いに耽っていると頭の中の景色やことばに出会うことがある。やめられない理由のひとつかもしれない。もっとも多くは醒めた状態の中で生まれてくるのだが、酔いの中で生まれるものはろくなものはないと知っている。それでも良さそうに思えてしまうから、やはり酔っているのだろう。 時間と空間を溶かしてくれる魔法の水は時に悪魔の水にもなるようだ。それでも、酒とバカの日々は続く。 ![]()
変に思うかもしれないがぼくは、はじめて会う女性に対してつい、この人はどんな人が好きになるのかなあ、と考えてしまうことがある。時に男性においても同じように考えることもある。まったく変なのだが考えてしまうのだから仕方がない。行動を規制することはできても思考を規制するのはむずかしいということだと理解している。もっともこの場合の「思考」が高尚なるものか甚だ疑問の余地はありそうだ。
人は、相対する人を「どんな人」かと思い浮かべる場合、顔は当然として、着ている服や職業、学校、出身地などで人物をつくりあげていく。ただこれらの手がかりとは別に勝手な思いのヘラやのみで人物像を形づくっていくこともしばしばである。そのひとつが、この人は「どんな人が好きなのかな」にあたるのだと思う。 たとえば、はじめて会う女性がとてもバタ臭い派手な感じの人だったとする。話すうちに見かけとは違う言動がちらほら感じられたりすると意外に納豆や塩辛が好きな人かもしれない。なんてふと思ったりして、あっさりした人が好きなのかな…とか、とか。 時に素敵な人がちょっとさえないパートナーと一緒だったりすることがある。そんなとき「あっ、やられた」感に襲われる。それが同性だとより強く感じたりする。むしろ負けた感に移行することさえある。 何かの機会で知り合いの素敵な人(男女問わず)のパートナーに会う場合、それまであんな人かな、こんないい人かなと勝手に頭に描きながら待ている。きっと素敵なんだろうな。ところがふと目の前に現れる人が「ちょっと似合わない、あれっ」っていう人だったりすると。がっかりというより、むしろあーやっぱりそうだよなあ、そうだよ、そうだよなあ。かっこいいなあ、なんて思ってしまう。その素敵な人は目には見えない何かを感じて他の人にはわからない魅力を得た人なんだなと、ますます素敵に感じてしまう。これは既婚、男女に関わらないから困ったもんだ素敵な人は。 あれこれ考えているときりがない。今のぼくと同じようにボけっと、サンデッキでポカポカを満喫している我が家の猫。君はどんな猫が好きなんだろう。 ![]()
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