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トリフォーが50時間にも及ぶヒッチコックへのインタビューをまとめた「定本 映画術」を遅ればせながら読んだ。厚さと同じくらいの充実感をもって本を閉じた。長きに渡って視覚表現を歩んできた自分だが、改めて見るとは、伝えるとはを再考することができた。 かえって今、読んで良かったのは多くのヒッチコック作品がデジタル化されており、本で取り上げている作品のほとんどをDVDやネットで見ることができた。その意味では二人の会話に多少なりとも参加することができた。特に以前は見る機会が限られていたサイレント時代のものは、ヒッチコックの演出やアイデアが正に視覚言語であることを堪能できた。 それにしても二人の映像への分析能力には頭が下がる。元々批評家でもあったトリフォーはまるで解剖しながら、電子顕微鏡を覗き、またメスを握るといった感じでシャープに切り込んでいく。受けて立つヒッチコックもよけることなく返す。この本自体がサスペンスに満ちていた。 ヒッチコックとトリフォー、共に知を捨てる知を持っている。そしてそれを感性に移行させる度胸も持っている。 何よりも、言葉にはできないものがあり、それを視覚表現が"言い換え"てくれることを二人は知っている。 #
by zuankousakuin
| 2016-10-10 10:09
| 美述の時間
写真は、世界を切り取らず、ぼくらから世界を切り離す。偶然を必然に、必然を偶然に、主体を客体に、客体を主体に変容させる。 見慣れた風景は世界から切り離されたと同時に、見るものに新たな距離と関係を差し出す。それが"事実"になる。友人から恋人に、恋人から友人に。楽しさの確認、終わったものの否定。 写真はある意味絵画と違って見慣れたもので溢れている。それだけに客体化されたものを改めて違う関係で見てしまう。既知と未知の差、両目の視差が立体を生むように、その差は大きくはない、その方が見たことのない実感はつかみやすいのかもしれない。 #
by zuankousakuin
| 2016-07-02 08:33
| 美述の時間
小学3年生になったばかりのぼくは栃木から千葉の小学校に転校した。
先生が家庭訪問を終えて、転校の手続きだったのか、なぜか一緒に学校へ向かった。黙って歩くのも嫌だったぼくは、つぶやき程度に話しかけた。 「先生、知ってる。忍者のマンガの足はね、親指しか描いていないんだよ」 「へえ、かたやまくんはいろんなことを知っているんだね」 もちろん勉強のことではない。ツタンカーメンの発見者がなぜか次々と死んだことや、ロボットの馬力、怪獣の重さなどのことだ。ぼくをまだよく知らない先生はほめる機会をうかがっていたのだろう。 途中、牛乳配達屋さんで先生はフルーツ牛乳をごちそうしてくれた。今はこれくらいのことでも問題になるのかもしれない。そこで何を話していたかは覚えていない。ただ先生が母の日にお母さんに何かあげたのかなと、聞いてきた。 ぼくは、ちょっと恥ずかしそうにこたえた。 「はい」 「へえ、何かな?」 「…ママレモンです」 先生はそうかあ、ママレモンか、それはよかったなと言った。 今、思えばもっと他に何かあげるものがあっただろうにと振り返る。 なぜママレモンだったのだろう。言ったことのない"ママ"が気に入ったのだろうか。当時のぼくを追いかけても捕まえることはできない。それにしても、これで家事をもっとしろみたいで悪かったかなと思う。でも母はぼくの100円が大金なのを知ってか、嬉しそうにしていた。 大人になって、路地裏の古い家の前を通る時、台所のすりガラス越しに見える食器洗い洗剤の背中はぼくの黄色いカーネーションになった。 母は93才、ママレモンを手にすることはないが、健在だ。中高年の子どもとおばあちゃんの母。 #
by zuankousakuin
| 2016-05-08 08:36
| 四方の話
うかつだった、ヒッチコックは愛の監督だった。サスペンスに一番似合うのはエロティシズムだ。「めまい」も「サイコ」も「北北西に進路を取れ」も愛の映画だった。
人を好きになることはもちろん、好きになった人を嫌になれないことも知っていた第1級の愛の表現者だった。 それにしてもレベッカのジョーン フォンティーンは美しい。美が歩いている、話している。美、それ自体が伝える力を持っていることをまたヒッチコックは知っていた。美が人を振り向かせ、傷つけることも知っていた。見えないレベッカ、現れることのないレベッカ。何よりも美には謎が似合うことを知っていたヒッチコック。 #
by zuankousakuin
| 2016-05-01 08:08
| 美述の時間
昔、読んだ本、ろくに内容も覚えていないのに、ひょんなところで記憶がポンと浮かぶことがある。
30代の頃、軽井沢の洋館でロケハンをしていた時のことだ。2階の窓から見える庭を見て、どこかで見た風景だと思った。こんなところに来たことはないのに変だなと思いながら他の部屋を見る。やはり、最初に見た2階の窓から見下ろした風景に記憶がある。それは以前、読んだ三島由紀夫の「熱帯樹」の中の風景だった。ぼくはその風景を思い浮かべながらアングルを探した。探す柱ができた気分だったことを覚えている。 同じようなことが映画にも言える。この間はサイコを見て、ウイリアムフォークナーを思い出した。一昨日は「マーニー」を見終えて三島由紀夫の小説「音楽」が過った。音楽(性的オルガスム)が聞こえない不感症の女と彼女を診る精神分析医、そして彼女が旅先で知り合った不能の青年。この3人は彼女の深層心理へと入り込み、迷路を抜け最後の扉を開く。別にヒッチコックの「マーニー」と似ているところを探しているのではない。なんとなく、粘土をこねた時の塊に同じ空間を感じるのかもしれない。 赤い色に異常に反応する盗癖のある美女マーニーと彼女を愛したショーンコネリー演じる若社長のマークが彼女の深層心理に迫る。ぼくは「マーニー」を見て、三島由紀夫を見た。 #
by zuankousakuin
| 2016-04-07 16:55
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